ソーニャとキエフ 第2話 それゆけ!そーにゃん応援隊


(このページは執筆中かつ暫定的なものです。今後校訂を繰り返して完成を目指します。2025,04,04)

(このページは一旦完成しましたが、今後校訂します。2025,04,13)


 私の大切な友達、ソフィア・キム。

 5年ぶりに会った彼女は、すっかり変わってしまっていた。

 自殺と殺人を願う、どろどろとした暗闇の世界の人間に。


 この5年の間、辛かったんだろうな。

 悪夢のような日々を、過ごしてきたんだろうな。


 私は福田マヤ。インドネシア人と日本人のハーフで、イスラーム教徒の端くれだ。


 日本を愛する日本人として、韓国・朝鮮人の反日にイラッとすることはある。日本人としては当然の反発心だ。

 でも、それを今のそーにゃんに、面と向かって言う勇気は、私にはない。

 私自身も、ハーフとして生まれ、育ってきたから。肌の色が違う、顔つきが違うというだけで、日本人として認めてもらえないこともあったから。


 そーにゃんの話は、彼女のおじいちゃん、おばあちゃんから聞いていた。

 発達障害者であることで、朝鮮系ロシア人であることでいじめを受けていたということ、ウクライナ戦争がきっかけで壮絶な暴力を振るわれたこと。


 今の私にできることは、そーにゃんの悲しみを分かち合うことだけだ。

 でも、彼女の命を、絶対に諦めない。


 マヤ、あんたが動かないで誰が動く。

 私たちがやらないで、誰がやる!

 私たちが助けるんだ、そーにゃんを、暗闇の世界から。


 慈愛深く慈悲あまねきアッラーの名において!




 ファイルーズあいさんという、エジプト人と日本人のハーフの声優の方が発言したことがありました、「ミックス(ハーフ)であることを誇りたいという気持ちと、コンプレックスが同時に存在している」と。これは多くの混血(ミックス)の方が感じている葛藤ではないでしょうか。イスラームの教えでは人類のルーツはひとつのはずなのですが、一方でアイデンティティで葛藤する人々は古今東西に居るものです。

 そしてソーニャの友人、福田マヤもまたその一人でした。インドネシア人の父(マカッサル族)と日本人の母の間に生まれ、子供の頃から日本人かつイスラーム教徒として育てられてきました。しかし肌の色や顔つきが「普通の」…この場合の普通とは多数派の日本人といった意味…日本人とは違うということで、日本人と認めてもらえない、あるいは何人とのハーフなのかを会う人会う人に聞かれるという経験をしてきたのです。彼女はその度に「私も日本人なのに」という反発を強くし、それをバネにして愛国心を高めてきたのです。

 だからこそ、ソーニャのアイデンティティの葛藤は、マヤにも理解可能なものでした。ネット右翼の躍進が止まらないこのご時世においても、ハーフであるという葛藤、そしてイスラームの教えが、彼女に一線を越えさせない抑止力となって働いていたのです。


 「お姉ちゃん、相談があるんだ」

 3月28日の夕方、福田家の自宅。ラマダンの断食が明けた頃に、マヤは姉に話しかけました。

 姉の名前は福田マルヤム。天真爛漫な女性として、向洋では「名物女」の扱いを受けています。特に万年筆への愛着というか執着は凄まじく、一本5万円の万年筆(金ペン先)のためならアルバイトも辞さない正真正銘のコレクターでした。


 「なーに?かわいい妹君(いもうとぎみ)よ」

 「気色悪い言い方はやめい!…あのさ、昨日そーにゃんの話、したよね、そーにゃんが変わってしまったって」

 「そうね…私たちの知らないところで、本当につらい思いをしたって」

 「だからさ、そーにゃんに…万年筆の一本でも、プレゼントしてみたらどうだろうって、思うんだ」

 「マヤ…」

 「そーにゃんに、毎日ノートを書くように勧めたいんだ、つらい思いも心の闇も、全部ノートに吐き出してしまえば…少しは楽になるかなって」


 「すごい、良いと思う!」

 マルヤムはマヤの手を取り満面の笑みで顔を近づけました。それこそ息が顔にかかるほどに近づけました、

 「近い!顔が近い!」

 「心の闇を吐き出すだけじゃない、日々のささやかなことも書いて、自問自答してもらうのがいいわ!そうすれば、自殺への思いも、やがて薄らいでいくはずよ!おお、我が妹君よ、なんて素晴らしいナイスアイデア」

 「言い方…」

 マルヤムは大仰な口調と身振り手振りで、そうこうしているうちに小躍りをはじめました。

 「そうだわ!万年筆といっしょに、文学もプレゼントしましょう!」

 「どういうこと?」

 「インターネットには、「青空文庫」という、誰でも無料で古典文学が読めるサイトがあるの。私も時々読んでいるんだけど…たしか、在日朝鮮人の文学もあった記憶があるわ!それを印刷して、プレゼントするのよ!」

 今度はマヤの方が感心して、

 「おお、姉さま、なんて素晴らしいナイスアイデア」

 と返しました。

 「それなら万年筆を選定して、それから文学を印刷した紙を…あとはロシア文学の本とか、取り寄せたらいいかもね!さっそく古本サイトで探してみる!」

 「いきなり大作だと取っつきにくいから、解説書がいいんじゃない?」

 「そうね!」


 こうしてソーニャへのプレゼントを決める作業はトントン拍子に進んでいきました。この姉妹はなんだかんだで仲はいいのです。大体は姉が妹を振り回すことが多いのですが。


 ここで万年筆について補足…現代ではボールペンが主流ですが、万年筆というものはペン先がステンレスあるいは金でできていて、コンバーターという吸入機構で水性染料インクを吸入して使用するものです。近年では趣味人の間でブームになっているほか、コンバーターしかゴミにならない、ひとつのコンバーターがあれば、それが壊れるまでは何度でもインクを吸入して使えるということから、海洋プラスチックゴミを減らす取り組みに賛同する人たちの間でも見直されているのです。


 「で、どうする?中古で万年筆を買うのかな、私もお小遣いからお金出すよ」

 「心配には及ばないわ、私の万年筆を一本、出せばいいのよ」

 「いいの?ありがとう。でもあんまり高価な万年筆だと、そーにゃんが萎縮しちゃうかも…」

 「それなら…いいペンがあるわ」




 そして、4月5日、土曜日。この日は夜から雨が降る予報が出ていました。
 マヤはやまと、そしてまりんにアプリのメッセージで招集をかけ、12時にソーニャの家を訪れました。

 「こんにちは、そーにゃん」
 「みんな、どうぞ上がって…」

 さて2階にあるソーニャの部屋で、ペットボトルのジュースを紙コップで分けながら、話を始めました。
 「みんな、ごめんね、この前は…あんな怖いことを口走って…でも、」
 「それ以上は言わなくていいよ、そーにゃん」
 マヤがソーニャの発言を止めました。
 「今日はマッサンから、そーにゃんへ素敵なプレゼントがあるのです」
 「マッサン言うな!」
 まりんは介助アプリを起動して、話に参加します。
 「マヤちゃんは、やさしい人、マルヤム姉さんも、やさしい人」

 「プレゼント?ぼくに?」
 ソーニャがきょとんとした顔をしていると、マヤがかばんからひとつのペンケースを取り出しました。
 それは黒い牛革の一本差しのペンケースで、中からでてきたのは、
 「うわあ、」
 黒い万年筆でした。
 「これは、私とマルヤム姉ちゃんからの、プレゼント…といっても、姉ちゃんが出してくれたんだけどね。プラチナ3776センチュリー、ミュージックという、ペン先がちょっと変わった万年筆なんだ。キャップを回して、開けてみて」

 ソーニャがキャップを回すと、中から金色に輝く金ペン先が出てきました、そしてそれは、穴がふたつ開いて、そこから切り込みが入っていて、ペン先が3つに分かれているという特殊なペン先でした。
 「すごい…」
 ソーニャは息を呑みました。
 「普通は穴ひとつ、切り込み一本なんだけど、このミュージックペン先は、穴と切り込みがふたつなんだ…もともとはミュージックの名の通り、楽譜を書くために使われていたペン先で、マルヤム姉ちゃん、いまでもミュージックペン先を作っているのは日本くらいと、胸を張っていたよ」
 「さすがマッサンのお姉さまは博識ですなあ」
 「マッサン言うな、それから、パイロットのブルーブラックインク、30ミリリットルのボトル、それからノートもあるよ」
 「え?プラチナとパイロットはブランド違わなくない?」
 「ああ、一応パイロットのインクも使えたんだ、お姉ちゃんが使っていたから大丈夫。お姉ちゃんは万年筆のヘビーユーザーで、350ミリリットルのでかいボトルを買ってるからね」
 「ほぼポン酢の瓶じゃないっすか」

 マヤとやまとの漫才のようなやりとりの最中にも、ソーニャはペン先に見とれていました。
 「いいの?こんなに凄いものを、ぼくがもらって…」
 「いいんだよ」
 マヤはソーニャの目を見つめました。

 「趣味を押し付けるようで、なんか変な気分だけどね…そーにゃん、この万年筆で、毎日ノートを書く習慣をつけて欲しいんだ。別に日記とか、きれいなノートをつけろって言うんじゃない、ただのメモ書きでいい、…そーにゃんの中の心の闇を、思い切りノートに吐き出して、心の整理をつけて欲しい。頭でぐるぐると悩むよりも、文字にしたほうが、整理をつけやすいと思うんだ」
 「まーやん…」
 ソーニャはマヤの目を見つめ返し、そのあと万年筆に目を落としました。

 「わかった…ノートを書くことを日課にしてみるよ。でも、」
 ソーニャはためらいの混じった表情をして、続けました、
 「ぼくは半分日本人だから、本当は日本を愛したい、でもできないんだ…半分は朝鮮系ロシア人だから…ぼくは決して日本を憎みたくない、でも、ぼくに酷いことをしたあいつらは、…日本人だった…日本の国の中で、ぼくは敵国民なんだ…」
 「そーにゃ、ん、うー…」
 まりんも、やまととマヤも心配そうに見ている中で、
 「ノートに心の闇を吐き出す、ということは…当然、日本への反発、日本への憎しみを書くことになる、たとえみんなに見せないとしても、そしてぼく自身が、それを抑え込もうとしても、…書いてしまうことになるんだ…みんなの祖国を否定することを…」

 「私たちに見せないなら、それでいいよ」
 マヤが自分の思いを伝えました。
 「これは…言ってもいいのかな、いや、言わなくちゃ、いけない」と小声で前置きをしてから、マヤは続けました。
 「私も…日本を愛する日本人として、朝鮮人の反日にムカつくことはある。それは日本人として、人間として、当然の反発だ。日本人がイスラームを信じるのに、日本人をやめる必要はない、なんでも外国人の主張に合わせる必要はない。でもね…アッラーは、日本人と同じように、朝鮮人のことも大切に思っていると、私は信じてる
 「マッサン…」
 「マッサン言うな…そうだ…私たちは違うからこそ、区別の境界線を越えて、交流しないといけないんだ…そーにゃんも朝鮮系ロシア人として…日本が憎いなら、それをノートに書けばいい。でも、私たち日本人と朝鮮人が敵対していても、お互いを尊重できなくても…アッラーが、その境界線を乗り越える力を、与えてくれる。それが私の、アッラーとイスラームへの信頼なんだ、並の人間にできないことを、可能にさせてくれる…創造主アッラーがひとつの人類をたくさんの民族に分けたのは、地上を多様性で満たして、お互いに知り合うためだったんだから」
 「…まーやん…ありがとう」

 まりんが介助アプリで発言します。
 「マヤちゃんは凄いよ、私も見習わなきゃ、まるで常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)みたい」
 「じょうふきょう…えっと、なんだって?」
 「うっうー」
 マヤが問い返すと、まりんはアプリに文字を打ち込みました。
 「常不軽菩薩はね、法華経に出てくる人物なの、性別や身分に関係なく、相手を尊重する模範的な仏教徒なの」
 やまとも思わずうなずきました。
 「ああ、相手を尊重するって口で言うのは簡単だけど、相手の身分に関係なく付き合おうとするって難しいことだよね。働けない人や貧しい人を見下す人もいるし、世の中には」

 「いいね、常不軽菩薩」
 マヤはソーニャに笑顔を見せて、
 「そーにゃんがたとえ日本に憎しみを抱いていても…私は、そーにゃんと苦しみを分かち合うんだ、その覚悟は、できてる」
 「なら、私も覚悟を決める!」
 「私も」
 マヤ、やまと、まりんの3人に対して、ソーニャは涙を流して、
 「ありがとう、みんな」
 感謝を述べました。

 「それから…無料で古典文学が読めるサイトがあるんだけど…それを印刷したものを」
 マヤは封筒を取り出しました。
 「出してみて」
 ソーニャが封筒から印刷物を取りだすと、そこには「金史良」という朝鮮人の名前が印刷されていました。
 「それはね、戦前に活動した在日朝鮮人の作家…金史良と、金鐘漢という2人の作家の作品なんだ、そーにゃんのルーツのひとつだから、印刷してきた。それと」
 「ま、まだあるの?」
 「マッサンは太っ腹なんですよぉ、ついでにお腹も」
 「マッサン言うな、誰がデブじゃ!…はい、これ」
 ソーニャに渡したのはドストエフスキーの解説書(著者注、具体的には「NHK100分DE名著」シリーズのものです。著者も愛読しています)でした。
 「これもそーにゃんのもうひとつのルーツ、ロシアの文豪だよ、いきなり文庫本の分厚いのだと躊躇するだろうから、まずは解説書ってことで!もし本編を読みたくなったら言ってね、お姉ちゃんが取り寄せてくれるから」
 「まーやん、ありがとう、マルヤム姉ちゃんにも…ありがとうって伝えておいて」

 「そう言えばお姉さまはどちらへ?」
 「留学生支援団体の集まりのために駅前へ行ってる、その前に広島市内もブラブラするっていってたから、今頃はこの世の春を謳歌してるんじゃないの」
 「うー、ううー?」
 「自由人だよねぇ、マルヤム姉さまは…」



 4月5日の昼、15時ごろのこと、ソーニャ宛に宅配便が届きました。

 「お母さん!ついに帰ってきたよ!キエフのカメラが!」

 ソーニャは喜びの声を上げて報告しました。

 「おお、ついに戻ってきたか」

 「すぐに開けましょう」

 ソーニャの祖父母も、ソーニャの笑顔を見て嬉しそうでした。


 家族でテーブルを囲んで、箱を開封します。大量の新聞紙と緩衝材を取り除いていくと、ついに、メンテナンスの完了したキエフのカメラが姿を現しました。フィルムふたつと、振込用紙の入った封筒も入っていました。

 「お父さんのカメラだ、お父さんの…!」

 「よかったわね、ソーニャ…これからフィルムを装填して、いっぱい写真を撮らなくちゃね…ねえ、私たちにも、フィルムを入れるところ、見せてくれる?」

 「うん!」


 その日のうちにソーニャは、祖父母と浪江の見守る中で、キエフのカメラを、マニュアルを参照しながらいじりはじめました。

 「えっと…ここを開いてフィルムを装填…えっ、まずフィルムを切らないと入らないの…」

 「はい、ハサミあるよ」

 フィルムが装填され、シャッターのカウンターを0に合わせて、

 「よし…それからシャッターを2回切る…これで大丈夫なはず…」


 「ソーニャ、私たちを最初に撮ってくれる?」

 「いいよ、お母さん、うまくいくかどうかは分からないけど」

 ソーニャは浪江と、祖父母を被写体に写真を撮りました。「ジーイ」というシャッター音が響きました。

 「そうか、お父さんのカメラはこんな音がするんだ…」


 同日の19時の福田家。

 「いやー、お花見楽しかったわー、たまご餃子も食べたし」

 マルヤムが帰って来るなりお腹をさすりながら、

 「おーう、我が妹よー」

 マヤに抱きつきました。

 「いきなり抱きつくヤツがいるか!つーか、お姉ちゃん、餃子食べたの?イスラームなのに?」

 「やーねたまご餃子だって言ったでしょ?ノン・ポーク、ノン・ポリコレよ」

 「ポリティカル云々は関係なかろう、それよりさっさと礼拝済ましちゃいなよ、アサルの礼拝してないでしょ?」

 「はーい」


 同じ頃のソーニャは、自分の部屋で、万年筆にインクを入れていました。

 「はじめてだな…万年筆使うの…インクを吸入して、ティッシュで吹いて…」

 そしてノートに想いのままに書き出しました。


 2025年4月5日。

 今日はキエフのカメラがメンテナンスされて戻って来た。お父さんと再会した気分だ。さっそくお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんを撮影した。

 まーやんからもらった万年筆も使い始めた。まーやんは、たとえぼくが日本を憎んでいても、ぼくの苦しみを分かち合うと言ってくれた。

 ぼくはその期待に応えないといけない。ぼくの本心はどこにあるのか、探らないといけない。

 戦前の朝鮮人の作家たちの文学、そしてロシアのドストエフスキーについての解説書も読むんだ、活字は苦手だけど…これが手で文章を書くこと、そして本を読むことなのか。この、いつもと違う違和感を、大切にしよう。


 ソーニャはスマホをいじるのとは違う、手で文章を書く感覚に、最初は戸惑いを覚えました。それは人生で初めての感覚でした。


 「そうだ、」

 ソーニャはスマホを使ってメッセージを送りました。


 まーやん!

 キエフのカメラ帰ってきたよ!

 写真撮りたい!

 万年筆も使ってる。


 この日の夜は大雨がふり、雷鳴がとどろきました。すぐにマヤからメッセージが帰って来ました。


 よかったね!すごい大雨だけど、明日はやむよ!さっそく写真を撮りに行こう!他の2人にも招集かけるね!




 4月6日、日曜日の午前。

 「こんにちわー!」

 インターホンが鳴ったあと、4人の声がソーニャの家の前で響きました。家の扉が開いてソーニャが出てきました。

 「みんな、来てくれてありがとう…マルヤム姉ちゃんも…」

 「うん、来ちゃったんだ…」

 「何よぉ、楽しいことには混ぜてくれたっていいじゃない」

 そうです、マルヤムも3人に着いてきてしまったのです…優しさと天真爛漫さと猪のようなバイタリティを併せ持つこの女性が、ついてきてしまったのです。

 「イスラーム教徒をブタ科の猪に譬えるなんて、失礼しちゃうわ」

 なぬ?この女わしの声が聴こえるのか?

 「当たり前よ、私は天下に唯一無二のマルヤムさまよ」

 「お姉ちゃん誰としゃべってるの?」

 「ひとりごとよ、うふふ」


 えーこの超能力者はさておいて…ソーニャを含めた5人はキエフのカメラで写真撮影をするべく、向洋のまちを散歩することとなったのです。


 5人はソーニャを先頭に向洋大原会館の前を通りました。

 「そーにゃんはどこを撮りたいの?」

 マヤが尋ねると、

 「向洋大原の、あの坂の上を撮りたい。大原神社の近く」

 と答えました。

 「大原神社?」

 「うー、はー?」

 「そう、大原神社。…昔、お父さんは大原の坂道から、仁保の黄金山を撮っていた。ぼくも、お父さんと同じように、黄金山を撮りたい」

 「いいっすね!ねえ、マッサン!」

 「マッサン言うな!」


 こうして5人は大原の坂道を目指すことになりました。向洋大原町には表のバス通りのほかに裏の通りがあり、そちらは向洋新町(洋光台団地)へと続く大きな坂道があるのです。この坂道は地元の文献によると「アズキモチ」という名前がついているそうです。

 向洋のまちはもともとは大原神社で行き止まりになっていましたが、第二次大戦後の高度経済成長のころに山と森が切り開かれて団地が造成されました。向洋新町の大きな道を通ると、2号線バイパスに繋がっており、そこから仁保方面と海田方面に行けるようになっているのです。


 5人は向洋新町につながる大きな坂道を登り始めました。

 「うー、ううー」

 まりんがスマホの介助アプリを操作しながら歌います。

 「この坂道はきついけど、みんなで登ると楽しいね」

 「そうッスねー、マッサンのダイエットにも最適」

 「マッサン言うな、そして私はまだデブじゃない!…最近ちょっとだけ体重増えたけれど…それはきっとあれだ…体が大きくなっただけだ!」


 「ねぇ、そーにゃん、懐かしい?」

 マルヤムはソーニャに語りかけます。

 「ウラジーミルさんの見た風景を、いま、私たちが見ているのよね」

 「…うん、ぼくも、懐かしい」


 大原神社の入り口は、下の方と上の方があります。下の方が鳥居のある正式な入り口で、上の方は車でも入れるようになっています。5人は下の方の入り口までやってきました。


 「キリスト教、イスラーム、イスラーム、キリスト教、仏教系の新宗教」とやまとが言いました。「私たち、誰も神社に参拝できないねー」

 マルヤムもほほえみながら、

 「まあいいじゃない、参拝しないからといって神社神道を否定することにはならないわ。私たちイスラームの人間も日本の宗教者とは仲良くしなくちゃね」

 と答えました。

 「お姉ちゃん、優等生的な回答だね」

 「だってそうでしょ?在日外国人のイスラーム教徒のなかには、日本人の宗教性なんて興味ないって人もいるけど、それじゃキリスト教のアメリカ白人の宣教師と同じじゃない?日本人の宗教に精通しないと、イスラームの説明なんてできないわ」

 「うーん!頭の痛い、耳にも痛いお言葉であります!」

 (一応クリスチャンの)やまとが頭を抱えて見せました。

 「しかーし!日本人のルーツは古代イスラエルにあると分かっているのであります!日本精神の真髄は聖書にあるのであります!」

 やまとのことばにソーニャが驚いて、

 「や、やまとん、なにを言っているの…?」

 そのソーニャにマヤが解説しました。

 「あー気にしないでそーにゃん、こいつ日本ユダヤ同祖論なるトンデモ説にはまってるんだよ」

 「トンデモ説とはこれいかに!?神社のルーツだって古代イスラエルの神殿に」

 「はいはい、よく分からないけど分かった分かった」


 「さて、それはさておいて、みんなで後ろを振り返って見ましょう!今日のテーマは黄金山を写真に撮る、これでしょう?」

 大きな声を出したマルヤムに反応して、みんなで仁保の方角を向きました。

 「うわあ、あれが…」

 「仁保の黄金山。きれいだね」

 「いつもは気にしないけど、こうして見ると絶景ですなあ」

 (まりんの介助アプリ)「やっぱりいいなあ、この景色」


 「さあ!そーにゃん、今こそあの黄金山を写真に…」

 とマルヤムが言いかけて、止まりました。

 「どうしたの?お姉ちゃん」

 「下の方から、人が登って来てるんだけど、あの人はまさか…」


 ソーニャたちが登ってきたばかりの道を、登ってくる人影が見えました。

 マヤも「まさか…」と声をひそめ、ソーニャは「え?何?どうしたの?」と不安がりました。その人はマルヤムと並ぶ向洋の名物女。

 「あーやっぱり」と福田姉妹は声を並べました。

 向洋の十字架娘と呼ばれるその女性は…読んで字のごとく背中に十字架を背負って、坂道を登ってきたのです。


 「をを、クリスチャン仲間!」とやまとは喜び跳ね上がり、目を輝かせました。

 (介助アプリの音声)「やまとちゃん、喜んでる場合じゃないと思います、近づいてきているよ」

 「近づいてきているならば、話しかけましょう!ね、そーにゃん!」

 「え、あ、うん、」

 「こら…そーにゃんを巻き込むんじゃないよバカタレ」


 十字架を背負った女性はどんどんと近づいてきて、ついにソーニャたちの近くまでやって来ました。そして、

「ハロー!こんにちは!

と、女性の方から挨拶してきたのです。


 「こ、こんに、ちは…」

 ソーニャは恐る恐る、

 「こんにちは!私もクリスチャンなんですが、あなたは何のために十字架を背負って坂道を登っているんですか!?」

 やまとはウキウキしながら挨拶しました。

 「オウ、良い質問デース!」


 「うー、すー」

 「うん、すごいよね、このバカ女子高生の度胸は」




 その女性は明るい茶髪で、かつ目も青いという風貌でした。

 「私が十字架を背負って歩いているのは…イエス・キリストが日本人のための神様でもあると知ってほしいためデス、そのためにはたとえ嘲笑(わら)われても、十字架を背負うしかないんデース」

 「かっこいいー…しかも十字架に日本の日の丸のステッカーが貼ってある、かっこいい」

 「そ、そうか?解せぬな、なんか日本がはりつけにされてる感じだな」

 マヤは盛大に呆れていました。


 「あなたも日本人クリスチャンならご存知と思いマスが…日本が嫌いな日本人クリスチャンたち、アメリカ白人を崇拝する教会の指導者たちが日本をいじめ続けたせいで、大勢の日本人がイエス・キリストから離れてしまいマシタ…東京や福岡のような大都市圏では、日本人クリスチャンがどんどんイスラームに改宗していマス、由々しき問題デース!」

 「へー、そりゃイスラームの人間としては嬉しい限りですけどね」

 とマヤが苦笑いすると、

 「ノー!」

 と女性が叫びました。

 「日本人がキリストから離れれば、神に責任を問われるのは私たちクリスチャンなのデス、まして古代イスラエルの末裔たる日本民族がイスラームになるなど、あってはならないのデース!」

 「まーやん、この人も日本ユダヤ…」

 「うん、同祖論の人だね、参ったね」

 ソーニャとマヤが揃って絶句し、

 「その通りであります!日本の王はイエス・キリストであります!」

 やまとは興奮の余り絶叫しました。

 「ううー…」(まりんの介助アプリ)「誰かやまとちゃんを止めてあげて」

 「無理だよまりん、たまげた、呆れた、涙出たの三重苦だよ」


 「みんな自分の国を愛しているんだな…ぼくには、大切にすべき国が…ない…」

 ソーニャがボソッと呟いたのを見て、マルヤムが心配そうに声をかけました。

 「そーにゃん、どうしたの?」

 「う、ううん、なんでもない、なんでもないんだ」


 茶髪で青い目の女性は高いテンションで自己紹介をはじめました。

 「申し遅れマシタが!私はアリソン・パーカーと申しマース!父はアメリカ人の宣教師、母は日本人デース!」

 「あら、パーカー?万年筆のブランドと同じ名前ね」と万年筆オタクのマルヤムが反応し、「そんなこたぁどうでもいい」とマヤが突っ込み、そしてアリソンが構わず話を続けていきます。

 「私は今から洋光台の、喫茶マジック・マウンテンに行く予定デス、よかったらご一緒に行きませんカ?」

 「マジック・マウンテン?」

 マヤがその名前を聞いて反応しました。

 「知ってるの、マッサン?」

 「マッサン言うな!…そう言えば3年くらい前に、向洋新町の、スーパーからちょっとだけ離れたところに、カフェ併設の障害者作業所ができたんだっけ、なにか聞いたことがある」

 「うーうー?」(まりんの介助アプリ)「知らなかった、そんなところがあるの?」

 「知らないのも仕方ないよ、向洋の町も下の方の旧市街と、洋光台団地じゃ、歴史や性格が違うからね」


 「よーし、じゃあ行きましょう、アリソンさん!私たちお供します!」

 「オーウ、ありがとうデース!」

 やまととアリソンがクリスチャン同士で意気投合する一方で、マヤは乗り気ではありません。

 「まあ、行ってもいいけど…さ…十字架が目立ちすぎるし…」

 「まあいいじゃないマヤちゃん、こういう人が世の中に居ても」

 「うっうーうー?」(まりんの介助アプリ)「そーにゃんは、どうする?」

 「ぼくは、」

 ソーニャが一旦ことばを出しかけて、みんなが注目する前で、

 「ぼくも、行きたい…障害者の作業所なら、ぼくも…ぼくと同じ障害を抱える人が、居るかもしれない」

 「イエース!それでは決まりデスネー!」


 こうして5人にアリソンを加えた一行は、向洋新町の喫茶マジック・マウンテンを目指すことになりましたが…

 「あ!」

 とソーニャが叫びました。

 「写真!しゃ、写真!」

 「そうよ…私たち黄金山を写真に撮るために、この坂道登ってたんじゃない」

 「アリソンさんなる人物が十字架背負ってくるから中断したんだ」

 福田姉妹がアリソンをちらっと見ました。

 「そ、それは失礼しまシタ…」

 「うー?」(まりんの介助アプリ)「そーにゃん、写真撮ろうよ」

 「それじゃあ、」と一息おいて「アリソンさんも、みんなも…写真に収めてもいいかな?」

 やまとがきょとんとしました。「へっ?黄金山はどうするの?」

 「黄金山も撮る、でもみんなの写真も撮りたい、人を撮るなんて初めてだけど」

 「ワーオ、いいですネ!」

 「じゃあ、まず黄金山だけを撮る、それから、坂道の上から皆を撮るよ」


 そしてソーニャは写真を撮り終えました。

 「ン?もしかしてそれはフィルムカメラ、デスカ?」

 「そうです…お父さんの形見のフィルムカメラ…」

 「ということは、現像するまでは写真はお預けデース…」

 少しがっかりしたアリソンをやまとがなだめます。

 「アリソンさん、現像するまでタイムラグがあって、ちゃんと撮れてるかも分からない、そのドキドキがフィルムカメラの醍醐味なんですよ、…私はいつもスマホのカメラだけど」

 「そうデスね!それじゃあ、喫茶マジック・マウンテンへ向けてレッツゴーデース!」




 今日はそーにゃんに万年筆を渡した。

 そして私たちは、そーにゃんとともに、そしてそーにゃんのキエフのカメラとともに坂道を登った。

 なのになんでこうなった?


 十字架を背負った奇妙な女性とともに、私たちは喫茶マジック・マウンテンへ向かうことになってしまった、

 一体どうなっちゃうんだろう?